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2011年8月22日月曜日

8月20日の読む会の報告、および次回予告

参加者七名で、イェイツの戯曲二編を読んだ。

「煉獄」は翻訳で二段組み5ページほどの短い作品だ。15分ほどで読み終わった。登場人物は少年と老人の二人だけ。場面は廃屋と立ち枯れの木。
この二人は親子である。少年の年齢は16歳。16歳の男の子の父親としては「老人」というのは年齢が高すぎる気がする。つじつまのあわないヘンテコな話だった。

この二人は荒涼とした景色のなか、つらい旅を長いあいだにわたってしているらしい。その旅の目的地であるこの廃屋は老人がかつて住んでいた家のよ うだ。家の持ち主は老人の母で、彼女は地方の裕福な名家の人間だ。しかし馬丁でがさつな父と結婚し、子供を産むと同時に母は死んでしまう。この子供がここ にいる老人だ。父は母の生家の財産をたちまち食いつぶしてしまう。この老人はこのがさつな父を憎んでいた。16歳のとき、老人は父を殺し、家を燃やして行商人となった。

老人は父親が母親と交わることを阻止すべくこの廃屋にやってきた。この廃屋では50年前の出来事、母が父を迎え入れ愛し合う行為が、老人がここに 戻ってくるたびに繰り返されるようなのだ。この日、母が父を受け入れることで、この老人が生まれてしまう。彼はいわば自分の誕生を阻止するために、ここに やって来たのだ。

父の乗る馬の蹄の音が聞こえてくる。母は嬉しげにいそいそと父を迎えに出ようとしている。廃屋のなかに母と父の姿が浮かび上がる。
老人は二人の行為を阻止しなかった。彼が行ったのは、同行者である自分の息子を殺すことだ。その殺害に使ったのは、老人が16歳のときに父を殺す ときに使ったナイフだった。彼が息子を殺したのは息子が将来「おなごをとりこにして子を孕ませ、次の代へ汚れを残すはめになるから」だと老人は言う。奇妙 な弁明だ。息子を殺したとて、どうしてそれが父と母の交接を阻止することになるのか。それに父と母が結ぶのを阻止するということは、自分自身の誕生を否定 することになってしまう。

父の乗る馬の蹄の音が聞こえてくる。息子を殺したことは何の意味もなかったのだ。

こうやって梗概を書き直してみると何となくわかってきたところもある。この戯曲は短いので二回読んだが、一回目はまったく何が何やらわからなかった。二回目はお話の内容は終えたものの、どう解釈したものかわからずとまどう。奇妙な論理で展開する風変わりな芝居だ。

二番目に読んだ「窓ガラスの左手」というのはお話自体は「煉獄」よりわかりやすい。19世紀末に流行ったという降霊術の話だった。降霊術士である 夫人は幼い女の子の支配霊ルールーを通して、アイルランド出身の文学者、ジョナサン・スフィストと彼の二人の愛人を呼び出す。文学と恋愛に対する考察が 17世紀の文人とその愛人たちの霊に憑依された術士の口を通して表明される。

こうしたオカルトへの傾倒としてはコナン・ドイルがよく知られているが、神秘主義者であったイェイツもこの手のオカルト現象には大きな興味をいだ いていたようだ。霊の憑依とは別人に乗り移られることであり、この作品ではこれが役柄を演じる役者がさらに別の人物を劇中で演じるというメタ演劇的仕掛け となっている。
うーん、まあ奇妙な味わいの興味深い戯曲ではあった。

次回は九月後半の土曜日に読む会を開催する予定だが、日時は未定。
作品も未定だが、一幕物の日本の戯曲を取り上げることになると思う。

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